2022年5月2日月曜日

OMIYAばりあフリー研究会を作った経緯:20220502

 さいたま市にある大宮駅のバリアフリーマップ。このマップを作る過程の中で団体申請を社会福祉協議会に出して作った団体である。理由は会議室を借りる為だ。


(- ゛-) ぱふ

■経緯

1996年 交通アクセス埼玉統一行動
さいたま市(旧大宮市)の団体がこの年は担当。
1年間さいたま市(旧大宮市)と毎月交渉の場を持つ。
団体交渉としては新しい展開になっていた。

1997年 大宮駅のバリアフリーマップ
交通アクセスさいたま統一行動とその後の交渉で成果が出せないかたちで終了。
次につながる結果を残したいと思い大宮駅のバリアフリーマップを提案。交通アクセス埼玉統一行動実行委員会で作らないかと私が提案したのです。実行委員会では作らないことになる。これでこの集まりは終了。

さいたま市(旧大宮市)の有志だけでバリアフリーマップを作ろうと私が呼びかけ集まる。実行委員会が終了したことにより福祉センターの会議室が借りられない。団体申請をすることが必要となり社会福祉協議会に申請。
これが団体を作った動機である。

マップ作ったら終了で考えていた。
気楽に作った団体である。

1997年 大宮駅のバリアフリーマップ完成(自由自在MAP)
A3・3つ折り・フルカラー・片手で持っても見られる厚み。見やすさや使いやすさを求めると凄ーくコストが上がってしまう。安く抑えれば手書きでコンビニで少量プリント。それでは次に繋がらない。最初は全額私が出すことでスタート。お金を出してまでやりたいと言う人はいなかったからだ。

社会福祉協議会に助成金を貰えるところは無いか相談。無理だと言われる。ヤマト福祉財団の募集の案内を貰う。新聞に掲載された記事も入れて直接郵送。なんと助成金を約50万貰えることになる。幸運でした。

デザインもボランティアで行って頂けたので印刷代だけ。確か20万くらい私が出すことで作ることができた。合計約70万くらいでしょう。

マップを作る前。さいたま市(旧大宮市)やJR大宮駅にも話を持って行く。作ってくださいと要望しに行っている。断られた。断られると意地になる性格が私である。「私が作るので協力はしてくれますよね」と確認だけ取り付けスタートしてるのです。

このマップの記事が国土交通省の目に留まる。
さいたま市(旧大宮市)が喜んでいた。

1997年 デイケアNEUE(ノイエ)設立の為に場所を借りる。
マップを作り終了の予定だった。集まった障害を持つ人がその後も集まって来ていたのです。特に施設に行かず在宅の人がいらした。既存の福祉施設に通うには賢すぎる。就職するのはハードルが高い。中間の人たちが在宅になっている現実を知る。

それでこの狭間の人たちを対象としたデイケアを作る。
埼玉県の交通の要の大宮駅から歩いて行ける場所。車が多く行きかう大栄橋の交差点の1Fに作ったのです。人のいる中でと言うコンセプトを打ち立てる。毎日電車に乗りNEUE(ノイエ)に通う姿を街の人たちに見せる。情報発信を活動の軸のひとつとして考えたのである。利用する人は交通の要の市であることから周辺市の人も対象にした。他市から来た時の人の補助金負担なども市同士で話し合われた。*NEUE(ノイエ)とはドイツ語で新しいや革新的を意味する。

1998年 デイケアNEUR(ノイエ)が市から補助金を貰えることになる。
ぎりぎりの状態で補助金が貰えることになる。補助金が貰えるまでの資金は当然のようにほとんど私の自費である。

補助金が貰える施設の条件。バリアフリーの設備も必要なのです。私が自費で材料を購入して作るしかないので手作りしてました。

トイレの手洗い器。器は植木を入れるプラスチックの容器を利用。蛇口はレバー式に交換。便器だけはお相撲さん対応の高さが45㎝の便器。確か便器だけで10万。

1998年 コーヒー販売。ユニマットの機械を入れ100円コーヒー販売。
販売は1997年から家庭用コーヒーメーカーで始めていた。当時はコンビニコーヒーは無い。ユニマットが毎月何箱もコーヒーを注文するので驚いていた。

1998年 障害者団体通信 ばり研通信発行
最初は家庭用印刷機で10部くらい作成。その後は助成金を貰い印刷機を購入して年10回1製作当たり1000部作製するようになる。日本のあちこちへ配布しだす。障害者第3種郵便を活用。

1998年 国土交通省から対談の依頼。埼玉の道と言うテーマで対談に参加。
新聞全面見開きの国土交通省のPR紙面にアナウンサーの方などと一緒に掲載される。*現在市会議員をやっている傳田ひろみが出たいと言うので傳田が出る。

1999年 さいたま市(旧大宮市)の当時の市長から正月の新年会に団体宛てにお誘いが来る。現在さいたま市議をしている傳田ひろみが出たいと言うので了解する。そうなると市や県の幹部の役人が近くに来ると寄るようになる。施設でコーヒー販売してたからだ。

*同じ頃に市町村合併を推進。国が大宮市・浦和市・与野市を合併させて国鉄の跡地も処理したかったのです。さいたま新都心を作り官庁を移転させる。合併特需。補助金も付けることで揺さぶってる頃である。国が動き議員秘書なども動いていたのです。七里駅周辺の区画整理を進めようとする人たちも動いていた。

偶然バリアフリーが注目されるタイミング。2000年に介護保険が始まり国の施策が施設から地域へと大転換。OMIYAばりあフリー研究会と言う小さな団体が巻き込まれていくのです。名前が時代にも合っていた。

当時市や県の幹部もNEUEに時々寄ってくれコーヒー飲みに来ていたのです。お茶飲み話しをてただけですけどね。急に区画整理を進めてくれや合併の話をする人が来るようになる。知らない処で詐欺的な行為が起きた理由が想像できます。

2000年 ふれあい福祉センターに人力車設立。
1Fのロビーで複数の団体が交代で販売できるようになる。人力車とはこの販売の場に参加する協議会のことであり販売の場のことである。さいたま市(旧大宮市)と複数回複数の団体にも参加して頂き交渉して勝ち取る。

2000年 埼玉県立近代美術館で美術鑑賞ガイドが始まる
視覚障害者の美術鑑賞もこの中に含まれる。美術館を使いたい視覚障害を持つ方に私が頼まれる。最初は点字ブロックの設置の依頼である。それが美術鑑賞ガイドへ話し合いの中で私が提案して変えたのである。視覚障害者の美術鑑賞へ展開していくのである。常設展としては日本でもっとも早い取り組みだ言われる。

2001年 イベント通勤体験 実際に通勤する様子を見て貰う。
それぞれが住む家5か所の駅から障害を持つ人が普段と同じように通勤。その様子を5グループに分かれて視察。国土交通省・さいたま市・埼玉県・警察など街づくりに関わる人たちに参加して頂く。縦割りを超えるきっかけを仕掛ける。
他の障害者団体には参加をご遠慮して頂いた。目的が違う組織を繋ぐことにあるからだ。OMIYAばりあフリー研究会の単独イベントで行う。

2002年 はあとねっと輪っふる設置 埼玉トヨペット本社1F
100万円の寄付を頂ける話が埼玉トヨペットから来る。お話をお伺いする中で別の提案を私がする。一緒にいる中で取り組めることを作れないかを提案。これが埼玉トヨペットの本社ショールームの中にいろんな人が集う場としてはあとねっと輪っふると言うかたちになるのです。

埼玉トヨペット経営企画室課長たちと私と傳田は密かに話し合いを2001年から重ねる。埼玉トヨペット役員会で企画書が通る。始めて他のメンバーにも知らせたのが2002年なってからだ。それまで誰も知らない。どんなかたちになるかは企画書を作る私の頭の中にしかない。私自身が落としどころを頭の中で描きながら進めている状態だった。他の団体にはOPEN約1か月前に呼び掛けている。

埼玉トヨペット経営企画室に感度の高い方がいたこと。社長の決断力と実行力が高かったことがなければ作れなかった。ぎりぎりまで試行錯誤しながら作ったのである。感謝ですね。

役所や他の企業からも評価される。
同時に障害者団体の中で欲の争いが始まるのである。
人間らしい行動とも言える。

2002年10月 私は団体を辞める。
経緯を見ればわかる通り成功してるのである。同時に妬みや政治利用などさまざまな問題が起きてる。

簡単に経緯を書くとこんなかたちでしょう。

ミ((((( ̄○ ̄) すうぃ~

文責:斉藤吉智


ミ((((( ̄○ ̄) ドンドンドン。


七里の花咲かおじさんとおばさんへの投稿は終了しました。

おかしいことをおかしいと言える人でいたい



2022-03特別号(市役所前配布)



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2021-NO:001-08月発行


2021-NO:002-09特別発行


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●●2021年11月13日土曜日開催(修正再UP)
さいたま市タウンミーティング録音完全版リンク●●

テーマは新市庁舎。さいたま新都心へです。
*見沼区役所にて10:00~11:30までの分です。

*私も参加してます。

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■七里の桜や橋上化・南北自由通路経緯

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